昭和49年12月03日 朝の御理解



 御理解 第67節
 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」

 長う続かぬと言うて、長うただ続いておるだけではいけん。もう何十年金光様の御信心を頂いておりますと、長う続いただけではいけん。釘付ではないと仰せられるのですから、動いて育っておらなければいけない。長う続いておりますというだけではいけん。釘付ではないと言う事は、絶えず動きに動いておるというか、育ちに育っておるということにならないと駄目だと思います。
 信心を頂く様になって、今日までの事を振り返って見る。何とはなしではあるけれども、段々おかげを頂いておるというのでなければいけない。パッと桜の花の咲く様なおかげを頂いて、それがパーッと散ってしまう様な信心では詰まらん。それこそ梅の花の様な信心をさせて貰うて、辛抱し抜かせて頂いておったらおかげで花も咲いた。鶯も来て止まった。おかげで実りにもなった。おかげでいつまでも悪くならんと言われる、梅干しにもなったと言う様に、育って行かなければ駄目なんです。
 私は有り難いと思いますのは、合楽の皆さんの場合には、そういうおかげを段々頂いとられるという方が、まず殆どであると言う事です。五年信心が続いた十年、二十年と合楽と共にお互いの信心が、進められて行っておる方達の場合、皆そういうおかげを頂いておられる。第一に貧乏がなくなった。おかげで薬箱が要らん程に健康になった。おかげで争いもない様になつた。しかもそれはこの信心を進めて行く限り、去年よりも今年今年よりも来年と、末広がりに広がって行くだろうという、見通しがついた。
 そういう信心でなからなければ、長う続くという値打ちがないのです。私は合楽の皆さんが、本気で信心の稽古を、皆さんなさっておられる方達の、家庭を見てみると、皆その様なおかげを受けておられる。五年では分からなかったけれども、十年たってみたらなるほどと合点が行く様になったという様にです。段々おかげを頂かなければならんのですけれども。信心は長う続いておるけれども、堂々巡りというかいつも同じ所にあるという様な事では詰まらんと思うですね。
 もう十四五年も前の事だったでしょうか。吉井の熊谷さんが頂かれた教えの中に「どれほどかお手間かけしぞ 菊の花」と言うのがあります。それを短冊に書いて差し上げておりますから、御神前の横にいつも短冊掛けにかけてある。お手間をかけてもかけてもそれが育たない。花も咲かないという様なのでは詰まらん。本当に神様にも御無理を言い、神様にも御迷惑をかけた。親先生にも本当に御迷惑のかけ通しであったけれども。それが日勝り、月勝り、年勝り、代まさりにおかげ頂いて来たと言う所にです。
 本当にお手間をかけた値打ちまた、神様が手間をかけて育てて下さった、神様の喜びもさることながら、それを受けた私共も有り難い。本当にどれ程かお手間かけしぞ 菊の花であります。昨日は、井上さんのお宅の、お婆ちゃんの告別式を、私奉仕させて頂いた。私が、自動車であちらへやらせて頂く時には、土砂降りでございました。丁度一時間ばかり前に行った。あちらに着かせて頂く頃から小降りになって、二時半の告別式でしたが、その頃から、お湿りが上がって。
 もう沢山な会葬者でございましたから、外に立って拝まれねばならない様な中に、お湿りどもがあっとったら、大変でしたけれども。おかげでとうとうお湿りを受けんなりに、おかげを頂きました。本当にそれは告別式ですから、もう永の別れの式ですから、悲しくない事はありません。ましてや身内の方達の場合なんかは、本当に悲しい事だと思いますけども。悲しいけれども有り難いという、その有り難いという感じが一杯でしたですね。第一私が一番有り難いと思った事は。
 あちらの井上さん御主人は、あんまり信心をなさいませんでした。お参りをされるのに、奥さんやら子供さん達が、お参りをして来るけれども、それをとやこう言われることはないけれども、まぁ信心をなさった事はなかったけれども、あちらに行ってから御挨拶に見えました時に、この度の母のお国替えで、お道の信心の本当にこんなに尊いものかという事を、分からせて頂きましたと言うておられます。
 だからこそ仏教でなさる様な事にまでなっておったのが、急遽合楽の親先生に、式を仕えて頂きたいと言う事になった訳です。とにかく段々病気が進んで分からん様になられてからでも、とにかくカセットテープで教話を頂かれる。とにかくそれを自分の懐の中に、ズーッと入れておる様な状態で、最後までおかげを頂いたという意味の事を申して居られました。次々と式も進んで、弔辞を読まれる。
 こちらからも敬親会から、佐田のお婆ちゃん、それから久留米支部を代表して、石井喜代司さんが弔辞を読んでおりました。帰りがけに若先生が言っておりました。親先生の御挨拶が有りますかと言ったら、挨拶はしないと言うとったが、今日の弔辞を聞かせて頂いておったら、親先生の挨拶をなさることは一言もなかったですねと言う位に、素晴らしい弔辞でした。それも弔辞というのは、嘘にでも讃えると言う様な、所がありますね。良い人でもないのに良い人だったと言った様なね。
 熱心でもないのに熱心だったといった様なのですけれども、もう本当に赤裸々ですけれども、実感のこもった弔辞でした。とりわけ喜代司さんの弔辞なんかは、素晴らしい名文でした。本当に頂きながら感動しましたがです。いうならば信心の歩みとでも申しましょうか。お婆ちゃんの信心の歩みが、今日こういうおかげ、送り名にも頂いておる、禰栄姫(いやさかひめ)と言う様な、愈々栄えると言うような字が、送り名に使ってありますが、本当に釘付けではない証拠に。
 段々おかげを頂いて、家の上にも、子供さん達の上にも、そういう信心が釘付けではなく、一年一年育って行っておられてのお国替え。八十七才という高令で、いわばおかげを頂かれて、しかも喜代司さんの弔辞の中にも申しておりましたように、お婆ちゃんは合楽というおかげを頂いて、合楽の信心という極楽行きの切符を持ってお出でられた様な物ですから、という意味のことを言っておりました。いよいよ有り難い世界にお出でられる事だろうと、こう言うのです。
 御霊様もそうであると同時に、そんなら残された方達もです。もう本当に不安がない、心配がない。思い残すことは更々ないというようにです。そりゃありましょう。様々な難儀もありましょうけれども。孫達に至るまでが、合楽の信心を頂いておってくれるのだから、まさかの時、どんな場合でも、親先生にお取次を頂くのですから、それはありましょうけれども、雨のことも風のこともあろうけれども、お取次を頂いて行く術、道を残してあると言う事で、霊様も安心のことであろうとこういう訳です。
 また夕べあちらの御主人と御姉妹の方達が、皆で御礼に出て見えました。またあらためて御礼には出るけれどもと言うて、夕べ夜の御祈念を済ましておったら出て見えました。一番上の井上カツミさんが、言うておられました。親先生私が一番親不孝致しました。けれども親というものは、親不孝者ほど可愛いと言うから、有り難いじゃないですか。しかしこれで信心を、しかも姉妹そろうて信心を頂かれるのですから、もうこれからは安心してくれると思います。
 私が御信心を止めない限りこれからは、霊様に心配かける様なことはありますまいけれども、一番心配をかけましたと言われる様にです。それは一人一人がそれを言えれる事だろうけれども。さまざまに心配をかけて来たけれども、それが段々心配をかける事が少なくなって、喜んで貰うおかげの世界に入って行くと言う事がです。私はそれが永う続かなければ値打ちはないと思うです。信心は生きものですから、生き生きとして育って行かなければなりません。
 釘付けではないと言うてです、ただ永う続いておるというだけでです。それが一つも進展していないなら、こりゃ本気で私共は改めるところは改めて、おかげを頂いて行かなければならん。一ぺんにとは言わなくともです。いつの間にか合楽に御神縁を頂いて、信心生活をさせて頂いておる内に、五年たち十年たちする内にです。何とはなしにおかげを頂いておるという実感がです、なからなければならない。またその実感そのまヽに、育って行かなければならない。
 五年前を思い十年前を思い、二十年前を思うてです。いうなら只今も申します様に、いよい極楽世界の切符を頂き、極楽世界に到達出来る。この生き方でさえ行けば、極楽行き間違いないという、合楽という船に乗らせて頂いて、その過程ではあっても、極楽行きが出来る、見通しがつく信心だけはさせて頂きたい。行く先は地獄か極楽かは分からねども、喜びだけは持って行きたいという。
 その喜びが成長しておれば間違いない。それは振り返って見るとです、本当に私が一番親不孝しましたという様に、様々に親に心配もかけた、神様にも御苦労おかけしましたけれども。おかげで、こんなに見事に咲きましたという、おかげの頂けれる目指しというものが出来た信心。ただ目先目先のおかげで一喜一憂するのでなく、それで信心が停滞したり止んでしまったり。
 どんなに一時それこそ桜の花の様な、華やかなおかげを頂いても、散ってしまったんでは値打ちはない。おかげで花も咲き実も稔るという様な信心になって行かなければならない。私は信心を銘々にしておらねば、永う続かんとこう言っておられるが。今日は私は永う続いただけでは駄目だと。成程御心配はかけたけれども、お手間もかけたけれども、振り返って見てそれが少しずつでも成長しておる。
 少しずつでも育って来ておると言う事実を、今日感じられる信心であらなければならないと言う事。であるならばそれは愈々その喜びは育って行くに従って、おかげも成長して行く事でしょう伸びて行く事でしょう。金光様の御信心は本当に私は一生がかりでさせて頂くものだと思います。おかげを頂くまでと言った様なものでは、今日の御理解には当てはまらない事になります。信心は確かに一生がかり。
 しかもそれが次第に有り難うなって行くという信心。しかもその有り難いというのにです、去年よりも今年という様にましな信心。所謂おかげに育って行くというおかげ、そういう信心が、私は釘付でないと言われたものであろうとこう思います。信心は永う続いておるからと言っても。それが堂々巡りのおかげの状態であるならば、それがよし永う続いても、それは永う続いただけでは値打ちはないと言う事になります。手が要れば要った程、印象が深いとか、学校の先生あたりが言われるですね。
 もう悪そう坊主で、先生の言うこつ聞かなくて、先生に御迷惑ばかりかけたという子供程、先生はその子供に印象深いと、忘れられんという風に言われます様に。私共もそういう意味でです、神様にそれこそどれ程お手間をかけるか分からん。けどもどれ程のお手間をかけてもよいから、かけて頂いたただけの成長を見なければです。信心は本当につまらんことだと思います。お手間をかけたけれども、おかげでこの様なおかげを受けたというおかげを、愈々頂きたいものですね。
   どうぞ。